正覺院縁起

「草庵から法相宗を経て真言宗寺院に」

皇極天皇三年(644)、平良岩木普明が住した後、養老元年(717)自ら剃髪して草庵を結び、念仏三昧たりし処へ、天平年間(729〜748)行基菩薩諸国巡錫の砌、当山に登り堂一宇を建て、篠尾山大乗寺と号す。(普明、行基に従い法相宗の教義を伝授され当山開基の祖となる。)第二世霊光律詩の代、弘法大師厳島弥山開基の際真言宗に改宗す。

「本尊不動明王勧請と神仏分離から現在にいたる」

貞応年間(1222〜1223)厳島神社社職、藤原親実卿鎌倉より廿日市桜尾城に転任、当山本尊を崇信して桜尾城祈願所と定められる。文明十年(1478)藤原奥親卿当寺の本尊として不動明王を勧請し、祖先親実卿のため、一堂を建立して正覺院と名付ける。慶安五年(1652)親実卿の産土神天満神社を桜尾城より移転祭祀し、廿日市氏神社とせし為、別当職として明治維新に至り、廃仏毀釈に依り神仏分離す。明治十七年(1884)祝融の災に罹り、堂宇悉く灰燼に帰す。以来天満神社と正覺院と各々再建現在に至る。

今は高野山真言宗(本山は高野山金剛峯寺)に属し、天満神社の管理から離るる。

正覺院の宝物

真言宗正覺院の本尊 「不動明王立像」

・木造不動明王立像 室町時代中期

・像高 81.5cm 寄木造

・広島県重要文化財(昭和60年12月2日指定)

不動明王は悪魔を降伏するために恐ろしい姿をされ、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を持っておられ真言宗の教主「大日如来」の使者です。お姿は、目を怒らせ、右手に宝剣を持ち左手に縄を持つ大変恐ろしい姿をしておられますがそのお心は人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちております。  

不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在であり、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結び、降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る)、羂索(けんさく=ロープ)を握りしめ(悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い上げるための命綱)、 背に迦楼羅の焔(かるらのえん=三毒を喰らい尽くす伝説の火の鳥の吐く炎)を背負い、憤怒の相で岩の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的です。日本では座像の他、立像も数多く存在しています。正覺院は立像です。

御真言 ノウマク サマンダバザラダン センダマカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン

正覺院の裏手にそびえたつクスノキ

・クスノキ科 クスノキ属

正覺院の裏手にそびえ立つ「楠(くすのき)」について。御存知の方もいらっしゃると思いますが、正覺院の楠は今から約二十年前に大々的に剪定されました。当時小学生だった私は「もう元に戻らないかも知れない。」と、大変ショックをうけたものです。今まで目にしてきた活き活きとした姿ではなく、丸坊主になってしまったのですから…。  

当時、正覺院裏手の斜面の工事をする前に、枯れてしまう可能性があるので事前に正覺院の宝物枝を落としておくという事だったみたいです。しかし、樹齢千三百年は伊達じゃない!周囲の「枯れてしまうのではないか?」という心配など何処吹く風です。現在では再び青々とした葉を纏っています。台風直撃を受けて、少し枝振りが寂しくなりました。でも、元気ですよ!おかげ様で、ちょっと風が吹くと葉っぱが落ちてきて掃除が大変なのですが(笑)

ある時、楠の周囲を測らねば!と、住職と息子二人の三人で頑張ってみました。結果、およそ大人6〜7人が手を繋いだ位(約12メートル=本当に適当。危険すぎて計れません。)だろうと測定されました。樹高は、約30メートル。樹齢は、約1300年。(当時の現場監督さんが1200までは年輪を数えられたそうです。)

楠に会うには、鐘楼堂の前の細い路地を突き当たりまでお進み下さい。目の前に、でっかい楠がで〜んと構えております。正覺院はもとより、廿日市の歴史を目の当たりにしてきた生き証人です。巨木と語る素敵な時間を体験してはいかがですか?

正覺院の鐘楼堂と梵鐘

・銅製 梵鐘

・山田治右衛門貞運 作 (廿日市出身)

・江戸時代中期(1786年) 高さ105cm

・市の重要文化財(昭和51年5月15日指定)

廿日市の鋳物師(いもじ)山田治右衛門貞運(やまだじえもん)が天明6年(1786)に制作した梵鐘である。山田家の梵鐘はその時代の鋳工技術を知る上にも、地元産業の製品としても重要である。

この梵鐘の銘文は医学で名高かった小倉玄州(おぐらげんしゅう)が書いたもので、こうした面からも貴重なものである。

密教法具 五鈷金剛鈴

・高さ 18cm 口径 7.5cm

・広島県重要文化財(昭和60年12月2日指定)

五鈷鈴とは金剛鈴の一種で、鈴の柄に五鈷杵(ごこしょ)のついた形を言う。密教修法のとき諸尊を驚覚、歓喜さすために振り鳴らす法具である。

柄のついた五鈷杵の形で時代が判別される。鉾先が鋭く、三鋒の張りの強いものが古く、これが見られないものは新しいとされる。また、把(は)の中央に鬼目と呼ばれる四個の球状突起があり、その上下に八葉蓮弁の装飾をつけるが、鬼目は古いものほど力強く、時代が下がるに従って形式化してくる。

この観点から本品を見ると、ともに弱く室町時代中期まで下るものと思われる。

正覺院の仏像 「不空羂索観音菩薩」

・一面八臂 木造坐像 江戸時代か?

『東大寺の三月堂(法華堂)は反りの美しい屋根をもつ奈良時代の優美な建物として有名である。この堂に入ると、正面には日光・月光菩薩や四天王にかこまれて、額の中心に縦長の目をもち、八本の手をひろげたきびしい表情の異様な巨像が立っている。日本に残る不空羂索観音の代表的な像である。観音に対して救いを求める人間の期待は際限なくひろがる。祈りさえすればどんな願いでもきいてくれるほとけであってほしい。そこで出現したのがこの観音である。漁師が目のこまやかな網で魚をもれなくすくうように、大海にただよう衆生を大悲の羂索(つな)によってひとり残らず救うという誓願をもち、インドではこの観音の出現を待っていたように絶大な信仰が集まって観音宗といわれるまでになり、三十巻の教典(不空羂索神変真言経)まで成立した。この経典では、観音を如来から独立させて独自の観音思想を展開させようという試みがなされており、観音の浄土は南方にあるとはじめて説いている。不空羂索観音の姿は一面三目、三面、十一面、手の数も二臂、四臂、八臂、十臂、十八臂と多様であり、憤怒の表情を表すことと説かれている。不空広大明王観世音、不空奮怒王、清浄蓮華明王という別名も、異様な姿も、すべてはこの観音の強大な威力の表現といえるだろう。 日本では奈良時代に盛んに信仰されたが、平安時代以降衰弱した。それは、この観音が鹿皮観音とよばれるように肩に鹿皮をかけているため、鹿を神の使とする春日明神の本地仏※と考えられ、春日明神を氏神とする藤原一族だけの守り本尊となったからだといわれている。藤原氏の氏寺興福寺の南円堂の本尊は康慶作といわれる巨像である。また、春日曼荼羅図のなかに本地仏として描かれているが、絵図の数も少ない。』

※佐和隆研氏の著作「仏像 祈りの美」より

正覚院に咲く花

  

「花一杯!正覺院より」

今年も桜はもちろん、クリスマスローズなどが満開になってくれました!参拝、お墓参りの折には是非足を止めていただいて、心安らぐ花たちの供養を受けていただけたらと思います!

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